けせらせらFP事務所

問題は解決されるために生まれてくる!

寄付 徒然日記

人という字は、人と人が支えあってできているということでもいいじゃない?

人という字は、人と人が支えあってできているということでもいいじゃない?

まだ予断を許さない熊本地震。
「人は一人では生きては行けない」ということを痛感させられます。
人という字は、人と人が支えあってできているというのは、漢字の語源からすると間違いであるということですが、人と人が支えあってできているという後付の解釈が綺麗だから、それでもいいじゃない?と曖昧なことを考えていたりもします。

ハート

いつ地震がまたやってくるのかと怯えながら生活をされている熊本や大分の方々と、離れたところでニュースだけからの情報で云々ぬかしている私とでは、精神状態が全く違う。

人間は感情の動物でしょうから、精神状態が安定しているときと不安定のときでは、取ってしまう行動だって違ってくる。
タダでさえ「人間は合理的に行動できない動物」だと言われているのですから、精神状態が不安定のときなどは、どんな状況となってくるのか?想定もつかないのでしょう。

発達障害者配慮なく=避難所入れず物資困窮―家族ら「無理解を痛感」・熊本地震

障害者やお年寄り、女性や子どもには特別な配慮が必要なことは、誰にでも分かることですが、これが緊急事態だという状況だと、特別な配慮などできないのでしょう。
自分の身を守ることだけが精一杯でしょうし、自分の家族を守るだけで精一杯。
食料だって満足に得られない地域だってまだあるのでしょうから、特別な配慮をこういうときに求めるのも酷なことかもしれないと思ったりもします。

 自宅の備蓄が底を尽き、助けを求めた避難所で掛けられたのは「一人一つ、平等なので欲しければ並んでください」という言葉。息子連れで長時間並ぶのは不可能で、手ぶらで自宅に戻った。

 

もし、私が配給を担当している人間だとしても、同じような対応をしていたと思います。この辺が「心がない」と言われるような部分かもしれませんが、緊急時においても特別な配慮はしないと思う。気には掛けても、特別扱いはできない。他にも大変な方々はたくさんいるのですから……。

 同じ境遇の人から相談を受けた古木満雄さん(63)は、発達障害を持つ次男を施設に預けて支援に奔走。同市の支援センターに掛け合い、何とか回してもらった物資を障害者のいる家庭に配った。センターもそこで問題に気付き、ようやく21日に物資を受け取れない人向けの配給を始めた。

 

支援センターだって被災地だと思われ、まずは自分たちのことで精一杯。この表現だと支援センターは、のほほ~んと過ごしており、問題を見過ごしていたように受け取られてしまいかねません(少なくとも私は、1回目に読んだとき、支援センターが何もしちゃいないと感じました。)が、支援センター自体が一段落ついたから、ようやく支援センターの活動に動くことが出来たということなのかもしれません。

緊急事態なのだから、普段以上に「助け合いの精神」が必要なことは誰でも分かっていること。しかし、被災してしまえば、何かに頼ってしまう気持ちが支配してしまうことも事実なのかもしれません。
手を差し伸べるということは、手を差し伸べる側に余裕がなければ満足にできません。しかし同じ境遇にあっている方々ならば「助け合いの精神」が生まれてくるのが日本人。「助け合いの精神」がスムーズに生まれてくるのは、普段からコミュニケーションが大切となってくると思われ、他人と接することを煩わしがらずに、普段からコミュニケーションを大切に暮らしていることが必要なのでしょう。

そして、基本的に「常に手を差し伸べてあげる側に回る」という気持ちを持っていれば、本文中にあった方のように、同じ境遇の方々へ支援が行き届くよう動ける人になれるでしょうし、備えという準備を怠らない人間になれるのかもしれません。

 

外野からの無責任な発言だということは百も承知。私にできることなど、被災地の迷惑にならぬよう考え、いくばしかの寄付くらい。そんな人間がガヤガヤというのもおこがましいことではありますが、国に頼るとか自治体に頼るとかの選択肢に大きな期待を掛けず、普段からのコミュニケーションが、被害を少しでも大きくしないことに繋がるのかもしれません。

なにはともあれ、被害がこれ以上広がらないことを願うばかりです。

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