「差別はいけない、差別はいけないと」、事ある毎に大声で叫んでいるようですが、いつまで続くんでしょうかね?
5年後、10年後も今と同じテンションで「差別はいけない、差別はいけない」と叫んでいるのでしょうか?
「差別はいけない」と知っている人は、そんなことを言われずとも差別などしていないでしょうし、差別をしなければ自分の価値を見いだせない人に向かって「差別はいけない」と無理に価値観を押し付ければ、それ自体が差別なんじゃないですかね?
周りの風潮に流されて「差別はいけない、差別はいけない」と叫んでいる方って、叫ぶことによって何らかの価値観を得ているのでしょうから、それはそれで良いと思うけど、怖いのは「周りの風潮に流されて」という部分。
哲学者でもなければ、人権派の人間でもないので、偉そうなことを言うつもりも考えているわけでもなく、自分の顧客がへんちくりんな思考に固まっていて欲しくないだけ。
「平均」だとか「人並み」だとか「常識」だとかって危険な気がしてならない。
発表されている平均だとか人並みだとか常識に、対応できるだけの背景があれば良いのでしょうが、背景がない状況で平均だとか人並みだとか常識を求めても虚しいだけ。
追い求めて努力することに対して応援や手助けはできても、過程をすっ飛ばして結果だけを求められても、無茶だってこと。
100mを12秒で走りたいと言われ、現状の体力等を踏まえて検証しても無理だってこと。
まずは、100mを全力で走れる体力を作り、努力をしなければ無理だってこと。
100mを12秒で走ることを目標にすることが無理なのではなく、過程をすっ飛ばして結果を求めることが無理だってこと。
無理をすれば怪我をしてしまう結果が待っているのでは?
努力をしたところで、全員が結果を出せるわけではなく、結果が出ないことも多々あるわけ。
なのに、結果だけを過程をすっ飛ばして求められても、お手上げだってこと。
人の人生を羨んでいても、自分の生活が自分の求めるモノに近づくわけではありません。
自分の人生は自分だけのモノであり、自分の背景でだいたい決まってくるわけです。
そこに努力をプラスすれば、もう一段上の人生を歩める可能性があるわけで、努力をしなければ、努力をしたときより自分が求める上の人生を歩める可能性が小さくなるだけ。
差別はいけないし、みんな平等なら良いんですが、みんなが平等になることは幻想に近いことだと把握し、そして人それぞれに価値観が違うことを認め、自分らしい人生を作り上げることが、幸せになるってこと何じゃないですかね?